連載「AI時代の構造論」

【第7回】AI時代に「責任を取れる人」の価値が上がる理由

実務能力が民主化される時代、最後に残る差は「当事者性」と「責任を引き受ける覚悟」。能力ではなく立ち方で価値が決まる構造。第7回。

ここまでの連載で、価値が上がるものを何度か挙げてきました。定義する力、状態を読む力、構造を設計する力。今回は、その全部の一番下に敷かれているものの話をします。責任です。

責任という言葉は、使い古されています。「責任を持て」「当事者意識を持て」。言われすぎて、ほとんど道徳の標語のように聞こえる。だから、まずこの言葉を道徳から引き剥がすところから始めます。今回の話は、心がけの話ではありません。AI時代に、なぜ責任を引き受けられる人の価値が構造的に上がるのか、という話です。

道徳から引き剥がす、というのはこういうことです。「責任を持つのは良いことだ」という話をしたいのではありません。良い悪いの話ではなく、AIが普及した結果として、責任を引き受けられることが、市場で評価される希少な能力に変わっていく、という構造の話をします。同じ「責任」でも、説教として聞くと退屈ですが、価値の移動として見ると、かなり実際的な話になります。ここまでの連載で繰り返してきた「持っていること自体の価値が下がる」という流れの、最終的な着地点が、ここにあります。

実務能力は民主化される

話の出発点として、AIが起こしている大きな変化を、一段抽象化して言い直します。

AIがやっていることは、煎じ詰めると「実務能力の民主化」です。これまで一部の人しか持てなかった実務の力が、AIを使えば、多くの人に開かれる。文章を書く力、分析する力、設計の素案を作る力、調べてまとめる力。こうした「できること」が、特別な訓練を積んでいない人にも、ある水準まで届くようになりました。

これは連載の前半で見てきたことの、まとめでもあります。情報を持っていることの価値が下がったのも、考える作業がコモディティになったのも、根っこは同じです。これまで希少だった「できる」が、希少でなくなった。実務能力の面では、人と人の差が縮んでいく方向に、世界は動いています。

ここだけ見ると、人間の価値は平らになっていくように見えます。みんなが同じくらいできるようになるなら、差がなくなるはずだ、と。けれど、実際には差は消えません。むしろ、別のところで差がはっきりしてきます。実務能力が民主化されても、民主化されないものが残るからです。

民主化されないのは「当事者性」

民主化されないもの。それが、当事者性です。

当事者性とは何か。一言で言えば、その物事を「自分ごと」として引き受けている度合いのことです。誰かに言われたからやるのではなく、その結果が自分に返ってくるものとして、本気で背負っている状態。傍観者ではなく、当事者として、その中に立っている度合いです。

なぜこれが民主化されないのか。AIで「できる」が配られても、「本気で背負う」は配られないからです。AIは作業を肩代わりしてくれますが、その結果に責任を持つ主体には、なってくれません。AIは間違えても痛まないし、評価も下がらないし、信頼も失いません。痛まない存在は、当事者になれません。当事者性は、結果が自分に返ってくるという痛みの可能性とセットで、初めて成立するものだからです。

だから、こういう状況が生まれます。AIによって「作れる人」「それっぽくこなせる人」は、急激に増える。けれど、その結果を本気で引き受ける人、外したときに自分が痛む場所に立っている人は、増えない。できる人があふれるほど、背負える人の希少性が、相対的に際立っていく。これが、AI時代に責任を取れる人の価値が上がる、いちばん根本の理由です。

ここで、希少性という言葉を少し正確にしておきます。背負える人が増えないのは、能力が足りないからではありません。背負うことが、本質的にしんどいからです。結果が自分に返ってくる場所に立つというのは、外れたときに自分が痛むことを引き受けるということです。人は、痛みを避けるようにできています。だから、できるだけ自分ごとにしない、線を引いて範囲の外に置く、という方向に自然と流れます。これは怠慢ではなく、ふつうの反応です。だからこそ、その自然な流れに逆らって、あえて痛む場所に立てる人は、構造的に少数のままになります。能力は配れても、痛みを引き受ける覚悟は、本人の中からしか出てこない。希少なのは才能ではなく、この覚悟のほうです。

当事者性は「課題の解像度」を変える

当事者性は、責任の話であると同時に、実は能力の話でもあります。ここが見落とされやすい。

当事者性が高い人と低い人では、同じ物事を見ても、見えている解像度が違います。なぜか。自分ごととして背負っている人は、その物事を、他人ごとの人より圧倒的に深く見にいくからです。外れたら自分が痛む。だから、表面的な理解では済ませられない。本当はどうなっているのか、何が本当の問題なのかを、肌身のところまで掘りにいく。

連載の第1回で、課題定義の精度が価値を分ける、という話をしました。第5回では、状態を正しく読めるかが土台になる、と書きました。実は、その精度や読みの深さを支えているのが、当事者性です。当事者性がないと、課題定義は浅くなります。他人ごとである限り、相手の現実の手前で理解を止めてしまうからです。逆に、相手の課題を自分の痛みとして感じられるところまで入り込めると、本人すら言語化できていなかったズレまで見えてくる。

私はこれを、相手の立場に憑依する、という感覚で捉えています。共感とは少し違います。共感は「分かる」という感情ですが、憑依はもっと踏み込んで、相手の課題感を自分の体の側に移してしまう感覚です。相手が何に焦り、何に安堵し、何を口にしないのか。それを、観察するのではなく、自分のこととして感じる。ここまで入って初めて、課題の本当の解像度が出ます。そして、ここまで入るには、結果を引き受ける覚悟、つまり当事者性が要る。当事者性と課題の解像度は、別々のものではなく、地続きなんです。

なぜ憑依するところまで必要なのか。理由は、人が使う言葉が、人によって意味が違うからです。「もっと楽にしたい」「ここがしんどい」「これは重要だ」。同じ言葉でも、その人にとっての重さや温度は、一人ひとり違います。言葉の表面だけ受け取って処理すると、本当の課題からズレたところに着地します。相手の課題を本当に解こうとするなら、その言葉が、その人の中でどういう現実を指しているのかを、頭で推測するのではなく、肌身で感じ取れるところまで入る必要がある。これは観察では届きません。相手の側に立場ごと移って、初めて見える距離です。だから当事者性は、優しさや誠実さといった態度の話ではなく、課題を正しく掴むための、能力の前提条件なのです。態度ではなく、精度の問題だと言ってもいい。

なぜ「分業」が当事者性を薄めるのか

ここで、連載の第2回の話と繋がります。分業の話です。

分業そのものは、悪ではありません。大きな目的を成し遂げるには、要素を分けて、それぞれを得意な人が担ったほうが、効率も確実性も上がります。これは前にも書いた通りです。問題は、分業のやり方によっては、当事者性が薄まる、という副作用のほうにあります。

物事を分けて渡していくと、一つひとつの工程は「自分の担当範囲」になります。範囲が決まること自体は必要なことですが、これが行きすぎると、「ここまでが自分の仕事、ここから先は知らない」という線が、当事者性の線にもなってしまう。全体の結果ではなく、自分の範囲の処理だけに意識が縮む。そうなると、誰もが自分のパートはこなしているのに、全体に対して本気で背負っている人が、どこにもいない、という状態が生まれます。

「担当なので」という言葉があります。私はこの言葉に、強い違和感を持っています。これは多くの場合、「自分の範囲はやった、だから結果については自分の責任ではない」という意味で使われます。分業が当事者性を薄めるときの、典型的な症状です。誰も嘘はついていない。みんな担当はこなしている。なのに、結果に対する当事者がいない。だから、伝言で熱量が落ち、品質が落ち、現場が疲弊する。これは、第2回で「継ぎ目で何かが失われる」と書いたものの、正体の一つです。失われていたのは、当事者性だったわけです。

AIは、この問題をさらに尖らせる

ここにAIが入ると、この構図はさらにはっきりします。

AIによって、分業の一部はひとりの中に畳み込めるようになりました。第2回で書いた通りです。これは、当事者性にとっては良い方向に働きえます。ひとりで通せる範囲が広がれば、「ここから先は知らない」という線が減り、結果まで自分で引き受けやすくなるからです。

ただし、それは自動的には起きません。AIで「できる」が広がったぶん、なんとなく形にして、なんとなく流す、ということも同じくらい簡単になったからです。本気で背負わなくても、それっぽい成果は出せてしまう。だからこそ、ここで差がつきます。AIを使って、ただ作業をこなすだけの人と、AIを使った上で、その結果を自分のものとして引き受ける人。アウトプットの見た目は、最初は似ています。けれど、外れたときに踏ん張れるか、誰も気づいていないズレに気づけるか、最後の一歩まで詰め切れるか。ここで、当事者性のある人とない人が、はっきり分かれます。

実務能力が民主化されればされるほど、最後に残る差は、能力ではなく、どれだけ本気で背負っているか、になります。AIは、人間の差を消すのではなく、差が出る場所を、能力から当事者性へ移している。そう捉えるのが正確だと思います。

「責任を取れる人」とは、どういう人か

最後に、ここで言う「責任を取れる人」を、正確に定義しておきます。

責任を取れる人とは、肩書きで責任者になっている人のことではありません。問題が起きたときに頭を下げる人のことでもありません。そういう事後の話ではなく、もっと手前の話です。物事を、最初から自分ごととして引き受けて立っている人。結果が自分に返ってくる場所に、自分から立っている人。外れたら自分が痛む、と分かった上で、それでも決めて、最後まで持つ人。

こういう人は、なぜ価値が上がるのか。理由はもう、これまでの全部です。AIで作れる人は増える。でも、本気で背負える人は増えない。背負っているからこそ課題を深く掴めて、深く掴めるからこそ正しく定義でき、定義できるからこそ状態を読めて、読めるからこそ構造を設計できる。連載でこれまで挙げてきた価値の全部が、当事者性という一本の根から伸びていた、という話です。

もう一つ加えておきたいことがあります。この「責任を取れる人」は、必ずしも、もともと特別な才能を持っていた人ではない、という点です。これまでの連載で見てきたように、できることはAIによって配られていきます。だとすると、ある人が他の人より抜けていく決定的な差は、才能の量ではなく、どこまで自分ごとにできるか、になります。これは、生まれ持ったものというより、立ち方の選択に近い。痛む場所に立つか、線を引いて外に出るか。その選択を、本気のほうで取り続けられるかどうかです。だから、この話は一部の優秀な人だけの話ではありません。むしろ、能力で抜きん出るのが難しくなった時代に、誰にとっても残された、数少ない差のつけ方の話です。希望のある話だと、私は思っています。

だから、AI時代に問うべきは「何ができるか」ではなく、「何を、本気で自分ごととして引き受けられるか」のほうです。できることは、これからどんどん配られます。引き受けることは、誰も配ってくれません。

ここまでで、当事者性と責任が、すべての価値の根にある、というところまで来ました。すると、最後に一つ、大きな問いが残ります。AIでひとりでできることがここまで増え、価値の源泉が個人の当事者性にあるのなら、そもそも会社という器は、まだ要るのか。最終回は、この問いに正面から答えます。AI時代に、会社は何のために存在するのか、という話です。

関連記事