仕事への影響
情シスのAI統制は「事前制限」より「事後検知」 損保ジャパンの2万人運用に学ぶ
全社員にAIツールを配ると、情シス担当者の仕事は「使わせない」ための審査から「使われ方」を監視する仕事に変わります。損保ジャパンが2万人規模で進めたGemini Enterprise導入は、その変化を具体的に示す事例です。
何が起きたか
損害保険ジャパンは2026年1月、全従業員約2万人にGoogle Cloudの企業向けAIプラットフォーム「Gemini Enterprise」を導入しました。DX推進部チーフエンジニアの城市由佳理氏によると、全社一斉導入に当たっては、機密情報の漏えいなどの安全面の懸念、AIに親しみのない従業員が使い方を見いだせない懸念、標準機能だけでは個別業務への活用が広がりにくい懸念の3つがあったといいます。
3つ目の懸念への対応として、損保ジャパンは従業員が自らカスタムエージェントを作成する市民開発を進めています。作成と共有にはそれぞれ研修を用意し、合格した従業員だけに権限を与えるルールにしましたが、Gemini Enterpriseの標準機能ではその権限を細かく制御できませんでした。そこで推進チームは、利用状況のログをデータ分析基盤「BigQuery」に集約し、全社ルールから逸脱した共有設定や使い方を自動でモニタリングする仕組みを開発しました。逸脱を検知した場合は、機能を一律に制限するのではなく、対象のユーザーに事後で是正通知を送る運用にしています。
あわせて、APIの利用上限(クォータ)のひっ迫を予兆検知するアラートも整備しました。2026年6月26日時点でライセンス割り当てユーザー数は2万1475人に達し、平日の日次利用率は50%を超え、週次利用率は約80%に上っています。
背景・解説
Gemini Enterpriseは、Google Cloudが提供する企業向けのAIプラットフォームで、チャット機能に加えて、業務マニュアルなどの文書を要約・検索できるAIノート「Gemini Notebook」や、従業員が個別業務向けに作るカスタムエージェントの利用を含みます。市民開発とは、専門のエンジニアではない一般の従業員が、こうしたツールを使って自分の業務に合わせた自動化やAIの活用を自ら作ることを指します。
これまでの社内システム開発では、サーバの安定稼働をいかに保つかが情シス部門の最大の関心事でした。損保ジャパンの城市氏は、AIエージェントの運用では逆に「従業員に使われないこと」や「不適切に使われること」の方が恐れる対象になったと説明しています。この発想の転換に合わせて、監視する指標もCPU使用率のようなシステム指標から、部署ごとの利用率や継続率、公式エージェントの利用数といった「使われ方」の指標に置き換えられています。
市民開発を許可する一方で、権限を人事データと研修合格者名簿を突き合わせて日次で割り当てる仕組みや、プロンプトと回答を検査する「Model Armor」によるガードレールも組み合わせています。安全確保と活用拡大を両立させるために、複数の技術要素が積み重なっている点が特徴です。
仕事や業務への影響 — AI Topicaの見方
情シス・DX推進担当者にとって、この事例が示す最大の変化は「権限を事前に細かく絞り込む仕事」から「使われ方を継続的に見張り、逸脱した人だけを事後に個別対応する仕事」への移行です。標準機能で権限を作成者・共有先ごとに厳密に制御できないなら、無理に事前制限を作り込むよりも、ログを集約して逸脱を検知し、通知で是正する運用の方が現実的です。損保ジャパンはこの発想で、機能を一律に制限せずに自由な市民開発とガバナンスを両立させています。
例えば、従業員300人規模の製造業で情シス担当者が2人しかいない会社なら、全従業員にAIチャットを配った直後、誰がどんな自動化エージェントを作っているかを一件ずつ承認する体制は現実的に組めません。担当者2人が2週間おきに利用ログを確認し、ルール違反があった部署だけに個別に連絡する運用の方が、少ない人数でも回せます。承認待ちの行列を作らないことは、従業員が実際にAIを使い始めるスピードにも直結します。
情シス担当者に必要な仕事は、大きく3つに整理できます。1つ目は、人事データと研修合格者リストを突き合わせて利用権限を自動で管理する仕組みづくりです。2万人規模でなくても、数百人規模の会社であれば、表計算ソフトの名簿を手作業で更新するだけでも一定期間は運用できます。2つ目は、部署ごとの利用率や継続率を追い、使われていない部署に声をかける仕事です。これは従来のシステム監視とは違う、利用促進のための分析業務になります。3つ目が、APIの利用上限が近づく兆候を早めにつかみ、提供元への申請を先回りして進める仕事です。損保ジャパンの事例のように、クォータの条件緩和には時間がかかるため、上限に達してから慌てて申請するのでは従業員の利用意欲を損ないます。
経理や営業といった現場部門の担当者から見ると、この変化は「AIの使い方を細かく指示されない代わりに、逸脱すれば個別に連絡が来る」という体験に変わります。研修に合格すれば自分の業務に合わせたエージェントを作れる自由度と、事後に指摘を受ける可能性が同時に存在する状態です。情シス担当者は、この自由度と統制のバランスを、承認フローの厳格さではなく、モニタリングの精度で調整する仕事に軸足を移すべきです。
不確かな点・注意
記事の内容は、損保ジャパンの城市由佳理氏がイベントで講演した内容を編集部が再構成したものです。数値や運用の詳細は2026年6月26日時点や講演時点のもので、その後変更されている可能性があります。
事後の是正通知を受けた従業員が実際にどの程度ルールを守るようになったか、違反の再発率といった効果検証の具体的な数字は明らかにされていません。また、Model Armorや外部プロキシを使った権限連携の仕組みは、損保ジャパンが利用するGoogle Cloudの環境や規模に合わせて構築されたものであり、他の企業がそのまま同じ構成を再現できるとは限りません。従業員規模や業種によって、必要な統制の粒度は変わる点に注意が必要です。