解説
AIにデータを見せずに処理する「完全準同型暗号」とGoogleの新コンパイラ「HEIR」の仕組み
企業がクラウド上のAIにデータを渡すとき、その中身をサービス提供側に握られることへの不安は根強く残っています。Googleが公開した完全準同型暗号コンパイラ「HEIR」は、この不安を技術的に解消しようとする試みで、AIにデータの中身を一切見せずに処理を任せられる仕組みを目指しています。
何が起きたか
Googleが、暗号化されたデータをそのまま処理できる「完全準同型暗号」向けのコンパイラツールチェーン「HEIR」を公開しました。開発者はPythonなどで通常のプログラムを書き、どのデータを秘密として扱うかを指定するだけで、HEIRがそのプログラムを暗号化データ上で動作する処理へ自動的に変換します。既存の完全準同型暗号ライブラリであるOpenFHEやLattigo向けのコードも生成できます。
HEIRはPyTorchやTensorFlow、ONNXなどで作られた機械学習モデルにも対応し、暗号化された入力データに対してAIの推論を実行できるようにすることを目指しています。Googleは活用例として、コンテンツのレコメンド、クレジットカードの不正利用検出、ネットワーク通信の異常検出、音声のホットワード検出という4種類のAI処理を挙げました。HEIRはオープンソースで開発されており、Belfort、Niobium、Cornami、Optalysysといった専用ハードウェアを手がける企業とも協力が進められています。
背景・解説
そもそも「準同型暗号」とは、暗号化したデータを復号せずに、そのまま計算できる暗号技術を指します。通常の処理では、サーバー側がデータを一度復号してから計算し、結果を暗号化し直す必要がありますが、準同型暗号を使えばサーバーはデータの中身を見ることなく計算を実行し、暗号化された結果だけを返します。利用者は自分の手元でその結果を復号すれば、元のデータを外部に公開せずに処理結果を得られます。ハードウェアによる隔離環境に頼らず、ソフトウェアの仕組みだけでデータを守れる点が特徴です。
ただし、暗号化されたデータに対する計算は通常の計算よりも複雑で、使用する暗号方式に合わせて演算方法やデータの配置を細かく調整する必要があります。従来、この調整には暗号技術の専門知識が欠かせませんでした。HEIRはこの部分を担うコンパイラで、開発者が暗号の詳細を意識せずに、既存のプログラムやAIモデルを完全準同型暗号対応の処理へ変換できるようにします。つまりHEIRは、暗号化対応のAIを新たに作るための道具ではなく、既存のAIモデルを暗号化データにも使えるよう橋渡しする役割を担っています。一方で完全準同型暗号は通常の計算に比べて処理コストが大きいという課題があり、Googleはソフトウェアの最適化に加え、専用ハードウェアを開発する企業との協力も進めています。
仕事や業務への影響 — AI Topicaの見方
この技術が実用段階に近づけば、顧客データを外部のAIサービスに渡す心理的な抵抗が小さくなります。例えば、従業員80人規模の地方銀行が不正利用検出のAIを外部クラウドに委託する場合、これまでは取引履歴という機密データそのものを渡す必要がありました。HEIRのような仕組みが実用化されれば、取引履歴を暗号化したまま処理を任せ、結果だけを受け取れます。情報システム部門にとっては、データ取り扱いに関する社内規定や監督官庁への説明が簡素になります。
ただし処理コストが重い技術のため、まずは機密性が高く処理量が限られる業務から検討を始めるべきです。全社の基幹システムへ一気に導入するのは時期尚早で、1つの業務でコストと処理速度を見極める運用のほうが安全です。専門知識を持つ人材を新たに雇う前に、HEIRのようなコンパイラで既存の仕組みをどこまで転用できるか確認する取り組みで十分です。
不確かな点・注意
HEIRはオープンソースで開発が進められている段階で、実際にどれだけの企業や製品で採用されているかは明らかにされていません。処理コストが大きいという課題は示されているものの、具体的な処理時間や費用の増加幅は示されていません。協力関係にあるハードウェア企業4社がそれぞれどのような役割を担うのかも詳細は不明です。導入を検討する場合は、対象業務でどの程度の速度低下が生じるかを事前に確認する必要があります。